ハンカチの王子様
<超ざっくりのあらすじ>

紆余曲折の末に思いが通じ合った、俺様バイオリニストの加納顕彰(かのうけんしょう)と俊才コンサートマスターの結城明星(ゆうきめいせい)
今夜はホテルのレストランで加納のプレ誕生日?
二人の馴れ初めがちょっと気になる方は、ぜひ既刊の『プライド狂奏曲』と『悪魔のフィナーレ』でお会いしましょう!

表紙イラストは倉田嘘さんにいただきました。
ありがとうございます! 






大きなガラス窓に取り残された無数の雨粒たちが、街の灯りを丸く映し出す。
雨上がり、夕闇の紅い色をほんのりと残す西の空には、ショパンのピアノに合わせるように、金星が瞬いていた。

「見ろ。ジメジメした梅雨空も吹き飛ばす、この俺の力を」

チャコールグレーのスーツに身を包んだ加納が、切れ長の目をニッと細める。
濃紺の糸が細く織り込まれたウールの生地に合わせて、
ネクタイもブルー系を選んでやったが、思い通り爽やかに仕上がった。

「顕彰の場合、梅雨前線の方が逃げてったんじゃないのか?」

来月の今日、七月二十八日は加納の誕生日だ。
当日に祝えばいい話なのだが、生憎彼はロンドンでの本番真っ最中だ。
結城自身の公演時期も重なっているため、加納の帰国スケジュールに合わせ、誕生日を繰り上げて祝う段取りになった。

「どっちでもいい。この時期の日本は湿気が多すぎて、楽器のコンディションに気を遣うから、大っ嫌いだ」

「嫌い」と言いながらも、今日の彼は機嫌が良い。
四つ星ホテルのレストランでプレ誕生日など、少し大袈裟かとも思ったが、思いのほかお気に召したようだ。

今夜だけは仕事の事を忘れて、二人きりでゆっくりと食事を味わいたい。
メインの肉料理が店の自慢という噂どおり、肉だけでなく、ソースから添えられた野菜まで、味と香り、彩り、食感など、全てが美しいバランスで仕上げられていた。

もちろん音楽も今夜は聴く側だ。BGMのピアノ協奏曲は、一楽章の第二主題に差し掛かろうとしていた。

「結城。バッハのシャコンヌを――」

唐突な言葉と共に、加納が銀製のカトラリーを置いた。
夜景を映した黒い瞳が、こちらを射抜くように見据えている。

「シャコンヌ?」

加納の真剣な眼差しに、結城の手も止まった。

無伴奏パルティータの中でも、単曲で演奏されることも多い有名な楽章だ。
重く悲しい旋律を、荘厳な変奏曲に仕立て上げていくのだが、
ショパンの協奏曲を聴きながら思い描くような曲でないことだけは確かだ。
結城の胸を嫌な予感がよぎる。

「俺が死んだら、墓の前でシャコンヌを弾いてくれ」
「はっ!?」

声が裏返ると同時に、フォークの先からシャトーブリアンが、皿の上にポトリ…と落ちた。

「……バッハのパルティータ2番の、終楽章を?」

結城は単語を一つずつ言い変えながら、
冷静に加納の意図を酌み取ろうと努めた。

「ああ」
「お前の墓の前で?」
「そうだ」
「俺が、一人で弾くのか?」
「当ったり前だろ。あれはバイオリンの独奏曲だ。気は確かか? 結城」
「っ!」

眼下に瞬く光が、天体写真のように光の弧を描いて回った気がした。
落ち着け。相手は加納だ。怒ったところで仕方がない。
そう自分に、よくよく言い聞かせながら。

「顕彰……。お前、どこか健康に不安でもあるのか?」
「いや。至って健康だ」

上等なステーキ肉の塊を無造作に口に運んだ後、
加納は若いウェイターを呼び止めた。

「あ、飲み物のメニューをくれないか」
「かしこまりました」

にこやかに答え、黒服の背中が去っていく。
それをうんざりした目で見送ると、結城は加納の申し入れを跳ね返した。

「断る」
「何だと!」

突然、声を荒げて席を立った加納に、
食事をしていた客たちの視線が一瞬で集まる。
緊迫したフロアを、ロマンティックなショパンのメロディーだけが、ふんわり夢見るように回っていく。

「座れ。少しは場所を考えろ」
「くっ…」

この大バカの脳ミソをCTに撮ったら、どんな画像になるのだろうか。
たとえ幼児のお絵かきのような、ふざけた画像を見せられても、
驚かない自信はある。

「いいか? わざわざプレ誕生日を祝ってる席で、何が悲しくてお前が死んだ時の話をしなきゃいけないんだ? 俺は」
「お前っ、そんなことも……わからないのか?」

拗ねて伏せられた睫毛に、遠い街の光が儚く集まり、揺れる。
気のせいか、彼の背後で輝く金星も、地上に降り堕ちる天の涙のように、悲しそうに滲んで見えた。

「つまり、俺よりも先に死ぬなって、意味に……決まってるだろ」

いよいよ目眩がしてきた。

――貴方なしでは生きていけない。

そんな愛の言葉を、加納なりに伝えようとしたらしいが、
元来のプライドの高さと意地っ張りな性格が、意味すら歪めている。

「頼むからもっとわかりやすい言葉で言ってくれないか。ご心配のところを悪いが、顕彰は必ず俺よりも長生きする」
「どういう意味だよ?」
「そのまんまだ。……あ、もう結構ですから、これを下げて貰ってもいいですか?」

ウェイターが持って来た飲み物のメニューを、笑顔でやんわりと断ると、
結城はテーブルの皿を下げてくれるよう頼んだ。

「もうこれ以上ワインは飲むなよ」

目に力を込めて念を押す。加納はアルコールにそう強い体質ではない。

「今夜は部屋を取ってあるんだから、もう少しくらい飲んでもいいだろ?」

いや。だからこそ潰したくない。
楽しい夜の予定が台無しになってしまうじゃないか。
加納の恨めしそうな目をよそに、皿もグラスも手際良く片づけられていく。
デザートを待つばかりになったテーブルの上に、結城は真紅のリボンが掛けられた、小さな包みを置いた。

「少し早いが、誕生日おめでとう。来月の演奏会で使ってくれ」
「? ……」

加納にしては丁寧な手つきで、シフォンのリボンをほどいていく。
そして中を確認すると、唇を幸せそうにほころばせて言った。

「ありがたく使わせてもらう」

白いハンカチに白のサテン糸で刺繍されたアルファベットの名前を、
彼の指先が愛おしそうに辿る。

ハンカチなど、日常生活では取るに足らない物だが、
楽器奏者にとっては、本番の成功を左右する重要なアイテムだ。

人は緊張すると手に生理的な汗をかく。間奏や楽章の合間、
この厄介な手汗を瞬時に拭うことができるかどうかは、
マラソンランナーにとっての給水タイミングにも似ている。
1ミスがその後の勝敗に繋がることも多い。
楽器の保護と滑り止めのため、バイオリン奏者の中には顎にハンカチを挟む者も少なくない。

「デザートの『巣籠りアイスのベリー添え』でございます」


頃合いを見計らったように、黄金色のシュクレフィレに包まれた木苺とアイスが、流麗な手つきでサーブされていく。
チョコレートソースでHappy birthdayとメッセージが書かれた皿を、初老の黒服は迷うことなく加納の前に置いた。

「ありがとう」

感謝を込めた結城の一言に、ベテランのウェイターは瞳を和ませると、
頭を下げ、コーヒーの湯気の向こうに去っていった。

メッセージの文字を崩してしまわないよう、フォークとスプーンの両方を使い、
加納が慎重な面持ちで糸飴のデザートに挑む。
その表情が、難しい音程の連続するエチュードを懸命に練習する少年のようにも見えて、結城の心をゆっくり幸福で満たしていく。

「なあ、結城。中学ん時のジャリコン(ジュニアコンクール)の本選、覚えてるか?」
「ああ。覚えてる」

結城と加納は、幼い頃からコンクールで一位を争い合ってきた間柄だ。
結城にとって、参加したコンクールの半分は、加納に一位を持っていかれたと言ってもいい。

あれは、中学生部門の本選直前の楽屋での出来事だった。

『……』

バイオリンを手にした加納少年が、楽器ケースの上を睨んだまま黙って動かなくなっている。
それを不審に思い、結城は彼に声をかけた。

『どうした?』

ただ一言「ハンカチ、隠された」と悔しそうな声が返ってきた。

加納の才能を妬んだ誰かが、彼が目を離した隙に隠したらしい。
実に子供らしい手口だが、本番直前の加納にとっては死活問題だっただろう。
近隣の店で買って間に合わせようにも、糊のきいた新品のハンカチでは
思うように手の汗を吸収してくれない。
汗で手と楽器が滑れば、本選で加納が敗退する確率も高くなる。
中学生ともなると、こういうズルさも一丁前だ。

『使え。俺は二枚持ってるから』
『……』

差し出された白いハンカチを受け取った加納は、一歳年上の結城を睨むと傲慢に告げた。

『礼は言わない。その代わり必ず優勝する』

言葉通り、加納はその日、中学生部門の第一位を見事に勝ち取った。

「まさか敵に塩を送ることになるとは、思わなかったがな」
「俺を甘く見るからそういう目に遭うんだ」

懐かしそうに苦笑する結城に、加納はハハンと得意げに笑って見せた。

あの日、勝ち気な瞳に溜めた涙を隠そうと、
ただ必死にバイオリンケースを睨むばかりの加納を、結城は初めて可愛いと感じた。
その後すぐ、自分のハンカチを会場近くのコンビニに買いに走った事は、結城にとって永遠の秘密だ。

「来月、ロンドンで弾くのはメンデルスゾーンの協奏曲だったな。オケのメインは?」
「チャイコの5番」 (チャイコフスキー:交響曲第5番)

結城は満足そうに口の端を持ち上げた。
売れっ子指揮者と名門オーケストラに加え、文句なしのプログラム構成。
興行主は一流のプロモーションで、加納を招聘したことだろう。

「向こうは当てる気満々だな」
「当然だ。そのために俺が呼ばれたんだから。先週向こうの事務所から、前売り分は全席完売したと連絡が来た」

演奏家なら誰もが夢見る最高の頂点を、加納はさも当然のように言い切った。

「調子に乗って、またハンカチを盗られないように注意しろよ」
「今度は名前が入ってるから大丈夫だ」

軽く酔いが回って来たのだろう。ほのかに染まった頬で、そう答える笑顔がやけに艶っぽい。

「この時期にこの格好は、やっぱり暑いな…」

加納が眉間にしわを寄せてネクタイに手を掛ける。

「コラ、着崩すな。店のドレスコードを守れ」
「スーツは肩が凝る」
「燕尾服は平気なのに?」
「あれは仕事の服だから、スーツとはまた別の話だ」

安心しろ。ネクタイは後でちゃんと自分が解いてやる。
そのまま壁に押しつけて、微かに熱を帯びた唇を強引に口づけでふさいでやる。
風呂に入りたいとゴネても許してやるものか。
どうせまた汚して風呂に入ることになるのだから。
妙なところで潔癖性なのか、彼はそれをとても嫌がる。
イヤだとむずかるのを、期待と快楽で少しずつ懐柔させていくのが、加納を抱く楽しみの一つでもある。

「何だよ。急に黙ってニヤニヤして……」
「いや、別に?」

金色に輝く糸飴をスプーンで割り、その中に大切に包まれていたアイスを口に運ぶと、結城は涼しい笑みを返した。

・**。・


先日のJ庭44でお配りしたSSペーパーを加筆修正しました。
お立ち寄りくださった皆様に心からお礼を申し上げます。
こんな二人のお話を書いた本編も、あわせてお読み頂けたら
嬉しいです。


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テーマ:BL小説 - ジャンル:小説・文学

【 2018/03/14 13:29 】

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