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しなやかに伸びた両手が緩やかな音の波を紡ぎ出す。
四十七本の弦から生み出される音楽は、
アトリウム型のホテルラウンジに降り注ぐ光をオーロラのように
揺らめかせていた。

――クライアントは気に入ってくれるだろうか?

優雅な音楽に人々が陶然とする中、
ハープ奏者の白澤和波(しらさわかずは)は
自分の指先から紡ぎ出される音に全神経を注いでいた。
楽器に反射する午後の光が、
弦を見つめる伏し目がちの長い睫毛に集まり、
散っていく。

貴公子のように整った横顔をわずかに緊張させると、
和波は足先で金色のペダルを素早く踏みこんだ。


事務所のマネージャーである宮村の話によると
「ワガママなクライアント」は今までの奏者では
ことごとくお気に召さないらしく、
このホテルに派遣されたハーピストは自分で四人目だ。

ということは、クライアントであるこのセレスティアホテルのオーナー、
榛原冬吾(はいばらとうご)はよほどのクラシック通なのだろうか。

ホテルにハープが常置してあること自体がまれな上に、
これまでの奏者たちの演奏に大きな落ち度があるとは思えない。
たかがラウンジ演奏に経営者が直々に関わってくるというのも妙な話だ。

しかしこちらもプロだ。自分の音楽で満足してもらいたい。

音大を卒業して五年、中性的で整った容姿を持つ和波は、
事務所からソロ演奏の依頼が回ってくることも多く、
他の奏者に比べて仕事面ではかなり恵まれている。

(この楽器にはたぶんこの曲が一番似合うな)

周囲の様子を見回した和波は、ステージの終曲に
あえてエチュードの一曲を選んだ。

本来こうした場での流し演奏にエチュードは不向きなのかもしれないが、
和波はこのハープの音色にはこの曲が似合うと確信していた。
ラウンジに常置された営業用楽器にしては、
ずいぶんピュアな響きを持っている。
イージーなクラシックの小品だけで終わらせてしまうのはちょっと可哀想だ。

(思った通り、ピッタリだ!)

ハープ特有の柔らかな音色と美しい分散和音が、
澄んだ湖に寄せるさざ波のようにどこまでも広がっていく。
練習曲とはいえ、学生時代から何度も何度も弾いてきた大好きな曲だ。
三拍子系の明るい曲想が、クライアントへの不安を少しずつ消し去っていく。

シルクジョーゼットの白い袖が低音弦へと伸びる度に、
古代ギリシア調の彫刻が施されたグランドハープの支柱がたおやかに振れた。


「優しい音のするいい楽器だったな……。お疲れ様」

ねぎらいを込めてハープのネックをそっと撫で、立ち去ろうとした和波を、
男性の穏やかな声が呼び止めた。

「それ、ナーデルマンのエチュードだね」

「え?」

年は三十代後半くらいだろうか。
イタリア製の物と思われる仕立ての良いチャコールグレーのスーツを
着こなすその男性は、和波が胸に抱いた外版譜の表紙に視線をやると、
くっきりとした二重瞼の目を懐かしそうに細めた。

「やっぱりそうだ」

「あ、はい。そうですが……」

(誰……?)

こんなマニアックな練習曲を知っているなんて、同業者か音楽評論家だろうか?
しかし、狭いこの業界でこんなに目立つ人物と一度顔を合わせたら
忘れるはずがない。
むしろ忘れることができないほどの魅力が彼にはあった。

彫の深い顔立ちと緩いウェーブのかかった栗色の髪に加え、この背の高さだ。
彼はハーフかクォーターなのかもしれない。
知性を湛えた深い琥珀色の瞳は真っ直ぐこちらに向いていた。


「久しぶりに聴いて懐かしい気持ちになったよ。白澤君といったね。
君の選曲かい? 優しいけど芯のあるいい演奏だった。
ここで演奏してもらうのは今日が初めてだったよね?」

「あの、なぜ……?」

名指しで繰り出される質問に、和波が睫毛を瞬かせる。

「これは失礼」

男性はここでようやくしまったという顔をすると、
ケースから名刺を取り出し、それを和波に手渡した。

「……榛原、さん……。あの、オーナーの!?」

噂の『ワガママなクライアント』を目の前にして、
和波は長い睫毛をもう一度瞬かせた。


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【2012/07/28 02:28】 |  天上の調べは愛を紡ぐ
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